今出川のジョー

思い出通りの人々

第十六回 茶房「わびすけ」

作家  増山 実

「わびすけ」外観。1957年開業。
2011年閉業/写真は2007年10月

「茶房」という言葉がある。今ではあまり聞かれなくなったが、喫茶店のことだ。同志社大学に通っていた七〇年代後半、まさに「茶房」と呼びたくなる喫茶店があった。烏丸通を挟んだ同志社大学西門前にあった「わびすけ」だ。
他の喫茶店とはどこか違う落ち着いた民芸風の佇まいの店内には独特の空気が流れていて、今もよく覚えている。窓格子の向こうの烏丸通りを眺めながら一人でコーヒーを飲んでいる人がいたり、教授がゼミ生たちと一緒にコーヒーを飲んで雑談していたり。あの頃の同志社近辺で思い出す喫茶店を一つあげろ、と言われたら「わびすけ」とこたえるOBOGは多いのではないか。
つい先日「わびすけ」の名前に久々に触れたのは、川端康成の小説だった。「虹いくたび」という小説の中で主人公が京都の大徳寺に「椿」を観に行くシーンがある。その椿の名前が「侘助(わびすけ)」というのだ。大学を卒業して四十四年も経ってから、あの喫茶店の名前が椿の品種から由来していることを知ったのだった。
久々に訪れた烏丸今出川は、地下鉄の出口を上った北東角に赤煉瓦風の新図書館が目の前に見えた。横断歩道を渡って「わびすけ」のあった場所に向かう。十五年前に廃業して今はテナントビルになっていることは当時の新聞記事で知っていた。三階建のビルだ。一階は学生向けの賃貸住宅を斡旋する不動産会社の店舗になっていた。二階は美容院のようだ。ビルの入り口のプレートを見ると、「わびすけビル」とある。

「わびすけ」の名前が残っていた。
「以前、この場所に『わびすけ』という喫茶店があったのですが」と店舗のカウンターの女性に声をかけた。女性は「ええ、そうですね」と気持ちのいい笑顔で答えた。「当時の看板が今も掛かっていますよ」そう言われてビルのエントランスに回ると、「わびすけ」と墨字で書かれた陶器製の大きな丸い看板が、そこにあった。喫茶店だった頃、烏丸通に面した入口に飾られていたものだ。

懐かしい。当時の「わびすけ」の話を、どうしても聞きたくなった。ある方を介して当時の店主、中井咲子(さくこ)さんにお話を伺うことができたのは、椿の花が春を告げる三月半ばだった。
中井咲子さんは現在、九十三歳。今も大変お元気で、七十七歳で店を閉じるまでは母の光江さん、姉の裕子さん、弟の忞(つとむ)さんの四人で「わびすけ」を切り盛りしてきたそうだ。

「わびすけ」を切り盛りしていた中井咲子(さくこ)さん、姉の裕子さん、母の光江さん、弟の忞(つとむ)さん
(左から)/1977年8月

咲子さんが和やかな表情で語る「わびすけ」の歴史と思い出は、実に興味深いものだった。
「『わびすけ』を始めたのは、私の父の中井汲泉(きゅうせん)です。父は、今の同志社大学の正門にある良心碑があるあたりで生まれました。明治二十五年です。あの頃は、まだあのあたりは大学の敷地やのうて、民家が並んでたんですね。中井家はもともとそこで人力車を扱う仕事をやってたんですけど、明治三十五年ごろから汲泉の父と母がその場所で『中井ミルクホール』を始めたんです。店には薔薇園があって黒薔薇が植えられて、ずいぶんハイカラな店やったそうです。これが『わびすけ』の前身、ですね。『いもねぎ』は、その当時から学生の腹を満たすために考案して出してたそうですよ」

人気メニューのいもねぎ定食と咲子さん/2011年6月

驚いた。「いもねぎ」とはじゃがいもを茹で揚げ、玉ねぎと炒めて挽き肉をかけ、卵でとじあわせた「わびすけ」の名物料理だ。大きな皿からはみ出そうなほどボリュームがあった。大勢の同志社大生がお世話になっていたあの料理が、今から百年以上も前から学生たちの腹を満たしていたのだ。しかもその店が、なんと今の同志社の敷地の中にあったというのだ。「わびすけ」と同志社のつながりは、思った以上に深そうだ。
「『中井ミルクホール』は、その後同志社から移転を懇願されまして、大正の初めごろに、あの同志社の西門前の場所に移ったんです。父の汲泉は同志社幼稚園の第一回生で、同志社中学に進みました。まさに同志社っ子ですね。学生の美術サークル『鞍馬画会』に入っていて、そこから今の京都市芸大にあたる京都市立絵画専門学校に進んで、画業の道に入ったんです。愛知県の美術教員や岩手県の盛岡の美術教員になって京都を離れてたんですが、その間、『中井ミルクホール』は親戚が続けておりました。戦時中は、『中井食堂』と名前が変わりましたけどね。それで、父が長年住んだ盛岡から家族と一緒に京都に戻ってきたのは、戦後になってからです。まだ京都には進駐軍がおりました。十八歳ごろやった私は進駐軍の家族のハウスメイドの仕事をしてたんですが、昭和三十二年に父が店を継ぐことになって、私も手伝いに入りました。その時、父が店の名前を『わびすけ』に変えたんです。当時は、一階を父の画廊として使っていて、二階が喫茶室でした。店を切り盛りしてたんは、私たち家族で、二階がお客さんでいっぱいになったら、一階の画廊にもお客さんを入れるようになってね。今日はお客さんにこの絵を褒められたよ、今日はこんな話をしたよ、と、父はよく嬉しそうに私たちに話してました。あの店のサロン的な雰囲気は、そんなとこから生まれたんかもしれません」
父の汲泉さんは昭和四十五年に七十八歳で亡くなったという。それ以前、つまり一九六〇年代までに「わびすけ」に通っていた同志社大生は、店の壁際で烏丸通を眺める和服姿に身を包んだ汲泉さんを見かけたことがあったかもしれない。後に社会党党首となる土井たか子さんも「わびすけ」の常連だったというから、二人が会話を交わした、と想像をするのも楽しい。

中井汲泉さん/京都御所にて

「懐かしいなあ、言うて、お店を訪ねてきてくれるお客さんはたくさんいはりました。みんな、おじいちゃん、おばあちゃんになっててね。『いもねぎ』を注文してくれるんです。贔屓にしてくれた同志社の先生たちの顔もいっぱい浮かびます。田畑先生、生嶋先生、西村先生、里井先生……」
七〇年代半ばに店の一階を喫茶室に改装したそうだが、記憶の中の「わびすけ」は金魚が泳ぐ大きな鉢が店の中央にあったり、茶器や壺の焼物が並べてあったり、ゆったりとした空気が流れる落ち着いた空間だった。汲泉さんが画廊として使っていた雰囲気をうまく残していたのだろう。聞くと、「わびすけ」の二階に通じる階段の手すりは、同志社大学の図書館が建設される前に建っていた大学院の手すりを、解体するときに同志社から譲り受けたものだという。
また、店に並べられていた茶碗や壺の焼物は、父の影響で陶芸の道に入った姉の裕子さんの作品だったという。ちなみに裕子さんのお孫さんは二〇一九年に同志社大学ラグビー部で主将を務め、U20日本代表にも選ばれた山本雄貴さんだというから、「わびすけ」と「同志社」の関わりはどこまでも深い。
咲子さんにどうしても訊きたいことがあった。なぜ、店の名前を「わびすけ」にしたのだろう?
「父は、嵐山や嵯峨野の野山を散策するのが大好きで、毎日のように足を運んでスケッチしていました。椿の絵もたくさん描いてました。椿の中でも清楚で可愛らしい『侘助』という品種が特に好きで、ちいそうて花弁が三つほどしかないんやで、って、慈しむように話してくれたんをよう覚えてます。それで店の名前につけたんやと思います」
京都には先に書いた大徳寺をはじめ、金閣寺や龍安寺など、「侘助椿」が見られる名刹がたくさんある。しかし、汲泉さんはそんな有名な「侘助」ではなく、嵐山や嵯峨野の野山の傍らで人知れず咲く「侘助」を愛したのではないか。そんな、訪れる人がほっと一息つけるような店にしたい、と、あの店を「わびすけ」と名付けたのではないか。

中井汲泉作「やぶ椿」

咲子さん宅を辞して、同志社の今出川キャンパスの北にある相国寺の境内を散策した。その境内の片隅に、可憐な椿の花を見つけた。相国寺の門前と境内は汲泉さんが生まれ遊んだ場所である。幼い汲泉さんは、ここで初めて「侘助椿」を見つけたのではないか。咲子さんによると、盛岡には侘助椿はなかった、という。汲泉さんが盛岡から故郷の京都に帰ると決心したとき、その心の片隅には、侘助椿の姿があったのではないか。想像はどこまでも広がるのだ。
椿の花は、散ることなく地面に落ちる。そして落ちてなおその姿が美しいという。「わびすけ」もまた、今出川から姿を消した今なお、多くの同志社人の心の片隅にその面影を鮮やかに残しているに違いない。

増山 実


1982年法学部法律学科卒業。放送作家を経て2013年『勇者たちへの伝言』で小説家デビュー。他に『波の上のキネマ』『甘夏とオリオン』『ジュリーの世界』『百年の藍』『今夜、喫茶マチカネで』など。最新作『われらみな、星の子どもたち』(2025年7月祥伝社刊)は能登に生まれた人々のたくましさと優しさを描いた長編家族小説。