オーテス・ケーリとその時代(前編)

第二次世界大戦終結から80年が過ぎ、世界の様相は大きく変わった。対外的には自国ファーストを訴えて他国を力で押さえつけ、国内的には国民の分断をあおる政治指導者が次々に出現。異論を唱える国家や政党は仮想敵国や抵抗集団と決めつける手法は容易く、およそほめられた政治手腕とは言えないが、国民も国民でこれら強権的手法に対し、ほぼ無批判に支持を寄せる傾向にある。世界の様相が変わったのではなく、大戦前に回帰しつつあると言った方が的を射ているのかもしれない。
かつて大戦で米国軍人として日本と戦いながら、戦中、戦後を通じて日本の来し方、行く末に心を砕いた一人の米国人がいた。
同志社大学名誉教授にして、長くアーモスト館館長を務めたオーテス・ケーリ(Otis Cary)。
日本という国家と国民のあり方に向き合った思いの深さは、日本人のそれをはるかに超越していた。混迷を深めるご時世だからこそ、今一度、彼の生きざまをおさらいしたい。

(写真出典 『追悼オーテス・ケーリ』)

オーテス・ケーリは1921(大正10)年、北海道小樽市富岡町で生まれた。父フランクは宣教師。ケーリ家にはファーストネームをオーテスと名づけられた人が3人いて、この欄の主役・オーテスの曾祖父と祖父が同名。1804年生まれの曾祖父オーテスはボストンの銀行頭取で、マサチューセッツ州上・下院議員を各2年務めた。1851年生まれの祖父オーテスは、アーモスト大学時代に新島襄と出会っている。大学卒業後、祖父はアンドーヴァー神学校に入学してアメリカン・ボードの宣教師となり、1878年に日本に派遣され、新島と再会した。その後、同志社神学校教授に迎えられ、のちに同志社理事も務めた。その三男が1888年生まれのフランクで、ハーバード大学大学院を出てYMCAから教師として日本に派遣され、大阪の北野中学、天王寺中学で教えた後、アメリカン・ボードの宣教師として日本、フィリピン各地で宣教活動を展開した。小樽市在住時に生まれた3人目の子供に父親の名前をつけ、3人目のオーテスとなる。フランクは1969(昭和44)年、勲四等瑞宝章を受章、その2年後に同志社大学から神学博士号を受けている。

6歳ごろ。小樽のケーリ家の庭にて。

小樽で幼少時代を過ごしたオーテスはなかなかのガキ大将で喧嘩が強く、幼稚園が持てあますほどだったために、フランクは彼を1年早く小学校(小樽市立緑小学校)に入れた。日本人の子供ばかりの中にただ一人、碧眼の子供が入ってくるのだから、担任教師は子供たちの動揺を慮った。後年、入学の日のことをオーテスは著書の「真珠湾収容所の捕虜たち」でこのように記している。
入学の日、先生がクラスの子供に話したことを覚えている。
「みなさんのうちの誰かが、日本を離れて、どこか遠い外国へ行っているとしましょう。お友だちがいないので、一人さびしくお家にいると、窓の外を、その辺の子供が揃って楽しそうに学校へ行くのです。みなさんのうちの誰かがその子だったら、どんな気持ちでしょう。それと同じような子が、きょうみなさんのクラスへ入って来ました」
日本人児童がスムーズにオーテスを受け入れてくれることを願った教師の言葉は効果てきめんだった。入学後まもなく、上級生が「青い目の新入りをやっつけろ」と教室に殴り込みをかけた。圧倒的に多い日本人とたった一人の米国人というこの状況では、オーテスを助ける子もいるが、上級生に加勢する子も少なくない。今も昔も同じことだろう。しかし、この時、クラスの全員がオーテスをかばって、年上の子供に反撃を仕掛けたのだ。
クラスに溶け込んだオーテスはのびのびと小学校生活を送った。担任教師の下支えがあったからだ。戦前の教育では、日清戦争で戦死してもラッパを手放さなかったラッパ手、木口小平のような忠君愛国の殉死者を語るケースが少なくないが、教師はそんな話をする時は必ず、「米国にもそういうヒーローはいる」と付け加えた。オーテスの存在を常に気にかけていたからだ。
当時はまだ、ひどい軍国教育ではなかったが、「腕を切られたら足で向かえ、足を切られたら歯で噛みつけ、たとえ首が切られようと頭で転がっていってかじりつけ」的な、戦意を高揚させる言葉は教育現場でも普通に飛び交っていた。父フランクから平和教育を受けてきた、幼いオーテスには衝撃だった。彼は3年生の時に「せんそうのはるいこと」と題した作文を書いた。
「学校で、だれでも大きくなったら、へいたいになれといいますが、僕はそうおもひません。世界はきょうだいみたくくらせばよいのです」
十数年後、彼は妻子を伴って北海道を旅し、緑小学校に立ち寄ると、学校に保存されていたこの作文を見せられた。改めて父親の薫陶の重さを思い知ったという。
オーテスが10歳になった1931(昭和6)年、ケーリ家は賜暇により米国に帰国した。賜暇とは宣教師が7年間任地で働けば、帰国して1年間の休暇を取らねばならないルールのこと。帰米する旅は教育の機会ともとらえたフランクは父と母が反対のコースを取ることにした。オーテスは二人の姉とともに父に連れられてシベリア、英国経由で大西洋を渡った。満州事変の直前で、満州からシベリアに入る時はかなり緊張した。大戦は足元まで近づいて来ていた。
一年間の賜暇を終えて、フランク一家は小樽に戻り、オーテスは14歳で進学のため米国に帰国した。米国では大学への入学準備段階の学校はプレップスクールと呼ばれ、オーテスはその一つ、ディアフィールド・アカデミーに入学した。校長のフランク・ポイドンはオーテス父フランクとはいとこ同士。アーモスト大学を卒業後、すぐにディアフィールドの校長となり、66年間も務めた。

当然のようにオーテスは進学先に祖父と父が学んだアーモスト大学を選んだ。同大には日本の外務省から何人かが派遣されて学んでいた。後に駐フィリピン大使となる竹内春海はオーテスが日本語で会話ができる唯一の友人であり、1972(昭和47)年、アーモスト館創立40周年記念講演では、オーテスがアーモスト大学でよく下駄ばきでキャンパスを闊歩していたエピソードを披露した。

大学2年生のころ(アーモスト大構内で)

オーテスが3年生の1941(昭和16)年12月8日、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃したことから、太平洋戦争が始まった。日本生まれで日本語が堪能な親日家の米国人は微妙な立場に置かれることになった。オーテスは眠っていたため、奇襲攻撃のニュースを知らず、翌日、友人から詰め寄られた。
「君はここにいる誰よりも日本をよく知っているはずだ。大使の引き揚げ完了はおろか、会談も打ち切られてはいないというのに、このだまし撃ちはなんだ。説明してくれ」
ケーリは「僕が知っている日本人はこんなことはしない。僕には今、これだけしか言えない」と答えるのが精いっぱいだった。だが、現実に戦争状態に陥った以上、徴兵される恐れがある。平和主義者の父の薫陶を受けたオーテスは戦争にはかかわりたくなかったが、国家権力はそんなことは許さない。唯一、良心的戦争忌避者の道は残されていた。少数派の宗教団体に所属する人は宗教的信念に基づいて敵を殺すための武器を取ることを拒否し、病院で働くというものだ。オーテスは平和主義者だが、宗教的信念であるとまでは主張できない。友人の兄は海兵隊員で「召集されないうちに海兵隊に志願すれば」という。
独り平和主義で頑張っていても、いずれ、自分は米軍の一員となる。戦いが終わった時に、日本に銃を向けた私を、私の好きな人たちまで相手にしてくれないのではないか。悩んだオーテスは自らの身の振り方について、日本から亡命の形でボストンにいた湯浅八郎に相談することにした。同志社総長でリベラリストの湯浅は軍部ににらまれ、自分が地位にとどまれば同志社の存続が危うくなると判断して辞表を出し、日本を離れた。湯浅は言った。
「あなたにはおじいさんの代からの立派な伝統がある。あなたのような人こそ、今の日本を破ってもらった方がいいかもしれない」
オーテスは湯浅の言葉に励まされた。軍国主義にむしばまれた日本を打ち壊さなくてはならない。打ち壊すなら他人にまかさないで自分でやろう。意を決してオーテスは1942(昭和17)年3月、米海軍に志願した。


堂馬 隆之

どうま・たかゆき
1957(昭和32)年、大阪市生まれ。法学部法律学科 1981(昭和56)年卒。元毎日新聞記者。アトランタ五輪特派員。